白夜城ブログ

1話
 入る前は汚らしく湿った暗い場所。人が気づかぬように隠された、変哲もない洞窟に見えた。
 奥へ進めばそれが嘘のように整備された、広大な地下都市。
 捕らえられ、商品として扱われる彼女は、地下でありながら広い世界にただただ怯えるしかなかった。
 押し込まれた鳥かごは、立ち上がれるほどの大きさで、綺麗な銀色をしている。
 綺麗でたっぷりと布が使われた白い服を着せられ、頭には重い物が乗せられ、足には鳥かごにつながれる枷があり、首には銀色の首輪。
 けっして彼女を傷つけぬ、彼女が暴れれば壊れてしまいそうな枷。彼女が売り物である証明以上の意味を持たない首輪。
 逃げはしないし、逃げられないと分かっている。ただの飾りだと分かっている。
 鳥かごの移動が終わると、かぶせられていた布が外される。
 眼下に様々な種族が居並ぶ。
 虫のような種族に、獣のような種族に、蛇のような種族、見たことのない様々な化け物達。この中に、彼女のような種族は一人もいない。似たような者はいても、やはり全く違う種族だ。
 それらの化け物が高い位置に置かれた彼女を値踏みしている。
「歌いなさい。良い主が欲しければ」
 彼女の世話をしてくれている眼鏡をかけた兎のような彼は、優しく優しく彼女に囁いた。怖い人だと泣きそうになって声が出ないから、優しそうな彼に変わった。だから彼は調子だけは優しく言う。その中身は優しくないが、声と姿だけは優しい。
「うたう……」
「そうです。昨日のように歌えれば、きっとよい主が見つかります。
 よい主でなければ、ひどい目にあうかも知れませんよ」
 びくりと震えて、一緒にいて食べられてしまった者達を思い出す。
 彼らは食料。
 彼女は食料になるかも知れないし、なぶり殺されるかも知れない。価値のない奴隷など使い捨て。価値があれば、主も愛情を注ぐ。魔物達は個々によって人間以上に性格に差があるらしい。
 彼女は唇をすぼめて息を吐き、鳥かごの中の小鳥が鳴くように歌う。
 綺麗な声で歌えば、綺麗なものを好む綺麗なご婦人が買い取ってくれるかも知れない。
 あの魚のような綺麗な女の人だと優しそうでいいな。
 それ以外は考えず、練習したように歌う。
 高く高く、涼やかに響くように高く。
 遠くへ遠くへ声を放り投げるように高く歌う。
 高い歌声の方が可愛くて綺麗だから。
 この声で彼女を売りにかける彼らが望むように値をつり上げれば、使い捨てにするような者は手を出さない。そう言われた。それを信じて歌う。
 高く高く、買い取りを希望する者達がよく分からない手遊びをする。
 目を伏せて、何も感じぬようにただ歌う。
 この声を愛でてくれる人がいい。優しくなくとも、恐ろしくなければいい。可愛がられずとも、食べられたり、殴られなければいい。
 うさぎの口上は、彼女の声の合間にタイミング良く行われ、まだかまだかとあおり立てる。しかし次第にそれ声が上がる頻度が下がり、やがて終わりを告げる。
 拍手が起こり、恐る恐る目を開く。
 立ち上がり、寄ってくる人を見て、彼女は愕然となった。
 優しそうなご婦人ではない。
 肥え太った蛙のような男。
 太った男は、きっと何でも食べてしまう。
 食べたいもののためなら、きっといくらでも払う。お金持ちはそういうものだと聞いた。
 怖くて怖くて、震えながら座る止まり木に爪を強く立てた。
 
 
 
 場所を移され、蛙のようなひとが近くに来ると、遠目で見るよりも大きくて恐ろしかった。
 青黒い肌はカエルと違って乾いているが、ごつごつしていて殴られたら痛そうで怖い。
「エンダー様が奴隷をお買い上げとは実に珍しい。誰か良い方への贈り物でございますか」
 うさぎの言葉に彼女は少し嬉しくなる。贈り物なら女性にだろう。優しい女性かも知れない。そうだったらいいな。
「いやいや。贈り物に生き物は向かんだろ。生き物は飽きたからとしまっておくわけにもいかんて」
「さようでございますね」
 怯える彼女へとうさぎがちらと視線を向ける。
 笑え。
 そう言いたいのだ。
 笑ってみる。ぎこちないだろう。引きつってしまう。恐ろしい。
「ちょうど大きな買い物をしたくてな。財は使いすぎてもやっかまれるが、使われなければそれはそれでいらんやからに痛くもない腹を探られる。絵は城に合う物がなかったし、宝石では女どもに持って行かれるだけ。生き物ならちょうどよい。これほどまでに可憐な娘も珍しい」
「確かに、これほど愛らしい品は他にはございません。さすがエンダー様はお目が高くていらっしゃる。
 光の下に生まれた、女神の現身のような愛らしさは、しばらく面倒を見たわたくしも別れるのが辛いほどでございます。
 エンダー様のような方に買い取りいただいて、安堵しております」
 うさぎは手をすりあわせ、心にもないことを平気で言う。手入れはされたが、ほとんどは見せ方の指導だった。疲れて死にそうになると眠らされて、回復すると再び笑顔と媚び方の指導。
 寝ている間は手足に色々な物をすり込まれ、ここに来る前とは肌の輝きが違った。
 売られるために磨かれて、高く売れるように教育され、笑顔で脅され続けた。お金とはどんな世界でも人を執拗に動かす動機となり、お金のためなら何をしても許される。
「お前ももう少し嬉しそうな顔をなさい。この方はとても裕福で立派なお方です。お前が恐れていたような相手でなくて感謝なさい。
 エンダー様も申し訳ございません。これは小さいので、自分よりも大きなものに慣れるまで少々時間がいりまして。
 本来ならわたくしは美術品の担当なのでございますが、このとおり小柄なものでこの品だけ特別に担当いたしました」
「なるほど」
 カエルのエンダーはふむと頷いた。その様が怖い。
 恐る恐る見上げると、エンダーは口を裂くように笑みを浮かべる。その口からとがった歯がのぞき、頭からかじられそうで恐ろしい。
「ほおら、エンダー様は優しげな方でしょう」
「…………」
 優しげにはとても見えないが、彼らには優しげに見えるのかも知れない。アルタスタの者達の感覚は理解できない。彼女のいた地上では、彼らは敵であり、ただ恐ろしいだけの存在だ。
「たべられませんか?」
「食べるはずでないでしょう。お前がいくらで買われたか分かっているのかい」
 いくらで買われたのかは分からないが、それほど高かったのだろうか。このアルタスタの金銭価値はよく分からない。いくらで買われたかも歌うのに必死で聞いていなかった。
「ほんとうにしょうがない子だ。
 前に保管されていたところと運び屋にさんざん脅されたらしくて、食べられるんじゃないかと怯えているのですよ。小さいものだから、大きな方になら一口で食べられてしまいますからね。実は私も常々同じ恐怖と闘っております。この商売、気の荒い方への接客も多いので」
 うさぎはおどけた調子でエンダーを見上げて言う。うさぎの肉は美味しいから、彼の肉も美味しいのかもしれない。
「そうかそうか、可哀想に。わしはひどい主人ではないから安心おし。お前さん名は?」
「のいり……」
「ノイリか。可愛い名だ」
 鳥かごの中に長い指を入れて振る。
 見上げると、笑っている。
 優しそうには見えない。
 それでも本当に食べないのなら、少し嬉しい。
 差し入れられた指に触れると、思ったよりも柔らかくて、触られても痛くなさそうだった。
 触れて喜ぶエンダーは、やはり怖いが、少しだけ怖くなくなった。
 殴られないなら嬉しい。
 彼女は足かせを外され、鳥かごから外に出ることを許された。用意された白い靴を履き、白い帽子を頭に被る。
 エンダーと従者に連れられ外に出た。外なのだが、その建物の外なだけで、やはり地下で空は見えない。待ちかまえていた大きくて綺麗な馬車に乗り、うさぎに餞別として水を渡された。ふかふかのクッションが敷かれた馬車が出発すると、手を振るうさぎはとても嬉しそうで、寂しくなった。彼は高く売れたのでとても満足している。
 エンダーの住処は地下通路を通り、いくつかの集落を経由して、持っていた水がほとんど無くなったころにようやく見えてきた。
 その穴にある集落は大きくて、中央には天に届くお城のようなものがあった。
 地下の空洞に建物があるのも不思議だが、縦長とはいえ大きな町があるのだ。今まで通ってきた場所は村という感じのところだったが、ここはとても都会に思えた。
「ほおら、ノイリ。あのお城がお前が住むことになる場所だ。分かりやすいだろう」
 エンダーが指さしたお城を見て、彼が本当にとてもお金持ちなのだと知る。
 馬車が天を支える柱の間をくぐり、どんどん城に近づいていく。
 少しだけ、ありの巣を思い出す。昔、誰かが蟻の巣に砂をかけて遊んでいるのをじっと観察した記憶があり、地下にいるという現実を思い出し少し怖くなった。
 あんな柱で支えられているのが信じられない。模様が描いてあるから、呪術的な力で支えているのかも知れないが、天井が崩れてきたらどうしようという恐怖はなかなか消えない。生き埋めや圧死は苦しそうで嫌だ。
「おなかがすいただろう。城に戻ったら食事にしよう。お前の口に合う物も買ってきたから心配する必要はないよ」
「ありがとうございます、ご主人様」
 怯えないように気を使って優しく撫でてくれる彼は、確かにとても優しい。怖い顔をしているが、泣きそうになっても殴らない。頭に触れられたときは涙をこぼしてしまったが、シルクのハンカチで拭ってくれた。
 叱られるようなことはすまいと心に決めて、できるだけ愛想良く笑う。
 良い子にしていれば、たちの悪い主でなければペットが殴られることはないらしい。躾けられることのないように、一生懸命良い子にならなくてはいけない。
「本当に綺麗な髪だなぁ。金髪というのは、女神の御髪の色なのだよ」
「女神さま?」
「そうだ。我らが大地の女神は、白い姿に金の御髪をお持ちだ」
「だから買ったの?」
「そうだ。わしの城には華やかな物は多くあるが、それにふさわしい華やかな者がいないんだよ。お前はわしの城を華やかにしておくれ」
「はい」
 ちらと綺麗なそびえ立つお城を見る。
 柱の一つにとけ込むような城は、とてもとても不思議で綺麗だ。
 町を歩く人々はあの市にいたような色々な種族の人たちで、怖い人もいれば綺麗な人もいる。
「珍しいか」
「はい。ひとがいっぱいいます」
 人間ではなく、魔物達がたくさん。人間の町ですらほとんど知らないのに、魔物の町など生きて見る地上の者はあまりいないだろう。ノイリのような奴隷だけだ。
「地上と違って閉鎖的だから、住民もそれほど分散していないからなぁ。この区は比較的いろんな種族が見られる所だよ」
 くぐもった声で笑い、上の方から響くその声がまだ少し怖い。
 馬車の中で二人きり。
 やはり怖いと思うのはどうしようもない。彼は怖い姿をして、怖い声をしている。
 怖くて背中がぞくぞくするが、触れた部分は温かい。
 今の優しさがずっとずっと続けば嬉しい。
 だから怯えないように、大人しく良い子にしていよう。
 聞き分けのいい、良い子に。
 水を舐めるように飲み、目を伏せて撫でられる感触だけに集中する。
 目を伏せれば、怖くない。
 城門をくぐり、いよいよ間近で見上げると、あまりにすごくて驚いた。本で見た蟻塚に似ていると思ったが、近くに来るとそんな思いと同時に、人工物独特の優美さも感じ、ふぁあと声を出した。
 お城の中はもっと綺麗だった。通路にもいろんな物が飾られ、通された部屋はあの市場のようにきらびやかで、天井にはシャンデリアが光っている。
 市場はお金持ちが集まるから飾られて、このお城はエンダーがお金持ちだから飾られている。
 通りすがる使用人達にじろじろと見られノイリはとても緊張した。
 手枷が無くとも彼女の姿を見れば誰もが奴隷だと分かる。銀の首輪も首輪らしからぬデザインだが、ここでノイリは奴隷以外の何でもない。ノイリはこの国の者達と姿がかけ離れているから。
「お前の部屋を用意しなくてはな。白い部屋を用意しよう。白い服も買わなくては」
 ノイリの白くてひらひらとした服が彼は気に入ったのだろうか。
 サテン地のとても高そうな服で、汚しそうでとても怖いからいやなのだが、お金持ちはこういった汚れやすい服のことも気にしないのだろうか。
「欲しい物があったら遠慮無く言うんだよ。わしはお前さんのようなものが必要なもんはよく分からんでなぁ」
「ありがとうございます」
 しかし何かいるものがあるのかすら分からない。
 水と食料があれば生きていられるから、最低限は与えられるはずだ。
 お風呂には入れられて身体も綺麗。丁寧に洗われすぎてつるつるだ。ほのかにいい匂いも付きまとうし、これからご飯なのだから、他に欲しいものはない。
「ああ、ヘイカー。今日からこの子を飼うことになった。可愛いだろう」
 ちょこちょことした足取りのヘイカーと呼ばれたエリマキトカゲのような男性は、まん丸な目をノイリに向ける。ノイリよりも少し背が高いだけなので、それほど恐ろしいとは感じない。よくよく見ると目が可愛い。
「旦那様、絵を買いに行かれたのでは」
「絵は気に入る物がなくてな。それよりもこの子を競り落とそうとしていた他の面子が気に食わんかった。
 それにこの子があまりにも可憐に歌うものだったから、つい買ってしまったよ。額に飾っておきたい可憐さだろう。手足が折れそうに細くて、肌が真っ白だ」
 いろいろと飾りをつけられた手足を見てノイリは驚いた。
 けっして細くなどないのに、むしろ彼女は太りすぎて悩んでいるのに、ヘイカーという男性もさして変わらない細さなのに、細いと言われた。
「わたし太いです」
「どこが太いんだ。目を離せば消えてしまいそうなほど儚いよ」
「太いから飛べないんです」
 彼は目を見開いた。
 ノイリは背中に生えた背にちらりと目を向ける。
 人間の中で生きていたときには邪魔だった、これがあるからこそ価値が出た部位を睨む。
「羽を切られているからじゃないのか」
「天族はもっと細いんです。皮と骨だけに見えるぐらい」
 だからノイリは天族のくせに簡単に捕まり、変わっていると愛玩用の奴隷にされた。元より彼女は人間に飼われていたため、物として扱われるのは慣れている。出来損ないだから、生きるために『物』になっている。
「わたしは天族の落ちこぼれなんです」
 そんな自分に大金を出させてしまった。あのうさぎはたいそう喜んでいたから、きっと本来の価値以上の金額だろう。
「ああ、だから天族にしては可愛らしかったのか。てっきりわしの知る天族とはまた違う天族なのかと思っていたよ」
 彼女の翼と魔力ではこの体重を支えられない。魔力をのせても高くは飛べない。魔力が少ないから飛べない。欠陥があるから食べなければならない。だから太る。太いからもっと飛べない。
 ノイリは飛べない鳥。
 飛べぬからここにいる。
「あれが正常だとしたら、飛べぬ方がよほどいい。わしはお前の可憐さを気に入った。飛べずとも良いさ。あやつらはどうにも好かんかったからなぁ。だがお前さんはあいつらと違ってとても可憐だ。
 それに痩せすぎているよりは太っている方が健康的だて」
 ぐふぇふぇとエンダーが笑う。
 それも違うと思うが、頷いた。
 少しだけ嬉しかった。
 自分のダメなところも、気に入ってくれる者もいるのだ。



 エンダーの食べる物は芋虫のようなものが混じっていた。見ていると気分が悪くなりそうで、ノイリは目の前のパンを見つめる。
 割ってみるが、普通のパンだ。堅めで油分の少ないパン。
 スープもかき回してみるが、おイモともやしと葉っぱと少しだけ肉の入ったスープだ。
 肉は何の肉だか分からないが、芋虫が芋虫と分かるように入っているのと違い、考えなければ食べられる。脂肪分の少ない高タンパクの肉。
 スープを一口だけ飲み、堅いパンをスープに浸す。
「美味しいか」
「はい」
 味は普通に美味しい。変な味もしない。昨日まで食べていた物とさして変わらない。エンダーの従者が、彼女の飼い方とやらを聞いて用意したのだろう。
「食べたい物があれば言いなさい。地下の農園にも、地上の者が食べられる物も多くある。地上の食べ物だって、そりゃ多くはないがこの町にも出回っている」
「くだものも……?」
「果物が好きなのか」
「喉によいものが」
 彼女の取り柄は歌だけだ。今日は無理をして高く歌い、慣れぬ馬車での移動でとても疲れた。
「それもそうだな。ヘイカー、わしの可愛い小鳥の喉を潤すものを用意しておくように」
 彼はこの城の家令だ。おかしな見た目だが、きっと有能なのだろう。ぎょろぎょろする目が少し恐いが、可愛くも見える不思議なトカゲ。
 水を飲むととても美味しかった。街の中には川が流れていて、水に困ることはないらしい。
 部屋も暖かいし、過ごしやすい。
 城の中なら自由に動いていいと言われた。だが城の外は危険だから一人では出てはいけないとも言われた。翼が生えた種族は珍しくもないが、ノイリのような翼は珍しいから誘拐されてしまうらしい。
 それでも閉じこめられていた昨日までが嘘のよう。
 死に脅えていたあの時が嘘のよう。
「そういえば、ベッドを用意させようと思うのだが、お前さんはどのように眠るんだい。わしにはどんな物を用意させていいのか分からなくてねぇ」
 翼があるからだろう。
「どこでも眠れます。水の中でも、木の上でも、床の上でも」
 水の中で寝るのは、真夏の暑いときは心地よい。
「ベッドでは眠らないのか」
「わたしの住んでいたところではベッドがないところが多かったです。ベッドはぜいたくだから」
 彼はきょとんとして彼女を見る。
「お前さんは愛玩用だろう」
「人間の孤児に混じっていたから、人間の最下層しかしりません。わたしがいたところは、みんなのための部屋を用意できないから床で寝ていました。大きくなってからは部屋をもらいましたけど、働けないから食べさせてもらえるだけありがたかったです」
 貧しい食事は彼女をこれ以上肥え太らせることはなかった。特別扱いはされていたが、彼女を直接監視する者達からはとくに特別扱いは受けていなかった。他の孤児達と違い殴られることはなかったが、かまうのは彼女の「主」が来たときだけ。
 他のみんなはどうしているだろう。
 一緒に連れてこられた者の半分は殺された。
 この肉が人の肉ではないことは分かっている。似たような形態の種族の肉を他人に食べさせるのは非常識らしい。
「確かに、お前さんは天族よりもよほど人間に近いなぁ。彼らも肉がついたらお前さんのようになるのかねぇ」
「ほとんどものを食べないからそれはないと思います。わたしとちがってカスミを食べて生きていますから」
「食べるのは生きる楽しみなのに、可哀想な者達だよ」
 こくりと頷く。
 ノイリは食べることを知っている。だからもしも身体の問題がなくとも、彼らのような生活には戻れないだろう。貧しくとも食べられるのは嬉しい。素朴な中にある味が好き。



 ふかふかだ。
 水の中に浮いているのとはまた違う柔らかさ。
 羽織る布団もふかふかで、身を沈めるとぺたんとなる。
 化粧を落とされ、装飾品を外し、また風呂に入れられて、手足に匂いのついた水をすり込まれて、この寝室に通された。
 エンダーの寝室は身体の大きな主が眠るため、信じられないほど広く、その部屋に違和感のないことに違和感を覚えるベッドがあった。
 このサイズならエンダーが三人でも眠れるだろうに、何に使うのだろうか。
「ご主人様はいつもひとりで寝てるんですか?」
「…………ああ」
 なぜか少し悲しげに頷いた。
「今夜はノイリがいるから寂しくはないなぁ。独り寝の夜は寂しいんだよ」
 奥方はいないのだろうか。言葉遣いからしてそれほど若くはないだろう。亡くなってしまったのかも知れない。聞いてはならない。
「ノイリ、ベッドは気に入ったかい」
「こんな上で眠るんですか。ふわふわなのにへこんだりしませんか」
「わしが眠っとるんだ。お前さんが乗ったところで何もかわらんさ。本当にお前さんは細いなぁ。これで太いのだから、天族というのは……」
 ひょっとしたら太っているのを気にしているのかも知れない。
 可愛らしい蛙とは違い、大柄な蛙に似ている。
 ノイリは蛙は苦手ではないため、触れられるのに嫌悪感はない。姿は恐ろしいが、可憐だと言って悪意を持たずに触れられるのは、嫌いではない。怖い目をした人間の大人は嫌いだった。触れてくる湿った手は気持ち悪くて泣いてしまい、監視達に叱られた。優しかった最後の監視は、どうしているのだろう。
「そういえばノイリは人間の中で育ったと言っとったな。地上ではどんな物をたべとったんだい」
「今日食べたものよりもずっと粗末な物ばかりです。
 でも、森の中に果物や山菜や木の実を取りに行くと、美味しいものが食べられました。森の中に甘い根があって、それからとった高いお砂糖を売って安いお砂糖を買ってジャムを作ったり」
 この姿だから森以外の外にはほとんど出たことがない。最後にいた、地下に来る前にいた場所は人目のないところにあり、森の中でみなと遊んだ。自分で歩いていける範囲で食べ物を拾った。微々たるものだが楽しかった。
「菓子は好きか」
「はい。でも太るし高いから、年に一度だけ食べるんです。天族は太りすぎると歩けなくなって死んでしまうからって、食べさせてもらえませんでした」
「そうか。死んでしまうのか。難儀な身体をしておるな」
 エンダーがベッドに腰掛け、頭に触れてくる。
 死んでしまうまでにはもう少し余裕はあるが、人間もそうだが気を抜けば太る。食べ物が目の前にあって誘惑に負ければ太る。ひもじいことを知る者は、つい手を出してしまう。
「わしは天族でなくて良かったと心から思うよ」
「天族になりたいなんて、変な人です」
 霞を食べて、魔力を取り入れ、その魔力で身体を維持する。魔力が尽きれば死ぬが、魔力の元は大気中にいくらでもあるから滅多なことでは死なない。不死の一族といわれるのはそのためだ。
 その不死の力を捨て、飛ぶことを捨てると彼女のように生き物らしくなり、常に死の恐怖を覚えることになる。
「お前さんは天族なのに、普通だなぁ。始めは天族だとはおもわなんだよ」
 太りすぎているから、これが標準以下である人間の中でも目立たずにやってこられた。一部の人間達はとても親切で、一部の人間はとても恐ろしかった。
 それはこの地底に住まう者達にも言えるのだろう。親切だったり、恐ろしかったり。
 柔らかいベッドが気持ちよく、うつぶせに眠る彼女の頭を撫でるエンダーは優しくて、少しだけ怖いと思わなくなった。
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2007/08/06   窖のお城   91コメント 0     [編集]

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